――華道家元池坊に生まれてから、池坊さんといけばなとの関わりから教えてください
いけばな自体は、幼稚園のころから教わっていました。当時は京都に住んでいて、小学校の頃は、学校が終わると野球など外で遊びたくて、先生が自宅で待っているのに、家の中に入らずグローブだけ持って鴨川の河川敷で遊んで、母からかんかんに怒られたりしていました。その後、進学のため東京に住むことになり、その縁もあって東京で新しい先生にも花を教わることになりました。
――その先生から、いけばなについてあらためて教わったと拝見しましたが、向き合うきっかけとは何でしたか?
そうですね。その先生は、昭和気質で頑固な白髪のおじいちゃんでした。基本は、朝の9時ごろから始まり、私が花を生けるのを先生がじっと待つという流れでしたが、私は手が遅かったので、夜までかかったり、時には日をまたいだりすることもあり、長い時間を先生と一緒に過ごしました。
そしてある日、2時間くらいかけて私が花を生けていたときに先生が、ブツブツ何かを唱えながら私の後ろを歩き出したんです。最初は気づかないフリをしていたのですが、先生もいよいよ辛抱ならなくなったのか、「ちょっと席を替わってくれんか」と言うので、「それじゃあ先生、見てください」ということで、見てもらいました。すると先生は、私が生けていた花を一本ずつ「ここをこうしたらどう?」とか「こうしたらいい感じじゃない?」などとおっしゃりながら、場所を移したり手を入れていき、最終的には私の生けたものとは全然違ったものになっていたんです(笑)そのときはちょっと衝撃的でした。
そこで使われていた草花は、先生が河川敷から摘んできてくださった葦やねずみもちといった秋草でした。先生に生け直していただいた花は、そこに秋風が流れているような本当に美しく自然の姿になっていて、命をしみじみと感じました。それで、「この美しさには、なにも言えないな」と諦めたんです(笑)
――なぜ、先生が生けたお花には命を感じられたのでしょうか?
命を見つめる目線が、先生は何段も何段も深かったんだと思います。実際、自然が好きで山に行って泥だらけになるような人で、花をさわっているときは、目の前の植物の命を生かすことに全力を注ぐというか、それ以外は全部見えないような感じの方でした。一方でそのころの私は、都会で育ち、命に対する感度が鈍っていたのかもしれません。先生からはいろいろと、命に共感する姿勢を学びました。
――そこから、あらためていけばなを始めることに?
そうですね。池坊家にいるから継ぐ、という考えは全くなく、自分のしていることを信じられることをすることが大事だと、考えていました。先生の命に対する真摯で誠実な姿勢や、日本中、世界中に生涯をかけて誠実に花を生けている多くの先生方と出会い、その気持ちに触れていくなかで、草木を生けることにそれまで以上に真摯に向き合うようになりました。
――「花には人の心を動かす力がある」と伺いましたが、池坊さんご自身が、花の力で心が動くのはどんなときですか?
池坊は仏教を背景としており、命のない植物は扱いません。花を生けるときは造花ではなく命ある草木を使います。そして花は切ったら枯れていきます。いけばなはある意味、業が深く、だからこそ「命を生かす」という意味合いも強くなるのです。そのように日々、感じているので、花を生けるたびに心が動きます。自分自身が目の前の植物の命と交錯するような、混じり合っていくような感動を覚えます。
――「命を生かす」ために、いけばなで大事なことは何でしょうか?
「一つひとつの草木の姿を尊重する」ことです。そのために私たち池坊では、花よりもむしろ葉や幹を大切にしています。なぜなら、花が咲くためには幹や根、葉っぱが必要で、それらが命を蓄えることで、花や実をつけていくからです。花がなくても生けることができますが、葉や幹がなければ生けられません。
――花を生けるのには、花以外の葉や幹が大切なのですね
草木だけでなく、周りの空間との関係性も大切です。今年は、白いキューブの中央に水を張って生けた花を置き、そこに水滴が落ちて波紋が広がるという空間を設けました。花を生けるために、空間自体も設計しています。
©2024 池坊専宗
――空間自体をつくっていくのは面白いですね。今回は、「私の美学」というテーマですが、池坊さんにとって、そうした空間づくりの考え方こそが美学に繋がるのでしょうか?
自分自身と世界、草木との関係を見つめていくためには、自然体に、フラットにいることが大切だと思います。もちろん、先達の歩みを学ぶという前提があった上の話ですが、積み上げた経験を脱ぎ捨てられたときに、より表現の深さが増すと思うんです。ひとつのことにとらわれず、より白紙の状態でいられるようになりたいですね。花を生ける場の規模やそこにいる人の立場は関係なく、自分が草木とフラットに向き合う状態、あえて言うなら「混じり気のない、白の世界」という感じです。
――「混じり気のない」とは、どのような状態でしょうか?
先入観や表現欲のない状態です。「自分がこうしたい」という自己表現欲は、ない方がいいんですよ。欲を出すと、必ず失敗します。目の前の命を、自然に伸び伸び生きているように、見つめていく。それが「花を生ける」ことだと思っています。
――花や草木と向き合うときは、どのような感覚を重視しているのでしょうか?
目と手ですね。枝や幹のゆがみや曲がりをよく見つめ、手でさわって硬さを感じたり、枝のしなりを確かめたり、時には虫の気持ちになって、「葉っぱをちょっともぎってみよう」とか(笑)。私は、道具はあまり使わず、目と手の感覚をやっぱり一番大事にしています。使うのは花鋏くらいで、使いやすいものが1本あれば十分です。
――そのほかに、ふだん使う道具にこだわりはありますか?
華道具のほかには、骨董品が好きですね。時間が生み出す風合いや、人から人に受け継がれていくことに価値を感じています。なかでも肌身離さず持っているのは懐中時計です。昔はデジタル時計も持っていましたが、カチッと1秒ずつ切り替わる表示に違和を感じて、使うのをやめました。この懐中時計はすぐに時間がずれるので、ぜんまいを毎日巻く必要がありますが、時間の経過をしっかり感じることができます。古物はほかにもカメラや万年筆を使っています。万年筆などの筆記具は書き心地も大事ですね。インクの伸びがよく、手に伝わる感触とともにすーっと気持ちよく流れるようなペンが好みです。
――普段から、手書きをされることは多いですか?
多くはないですが、お気に入りのペンで白紙に描く行為が単純に気持ち良いので、書くことは好きです。
白紙には、何でも書けるんです。何を書いてもいいし、何かに囚われる必要はありません。そこに縛りはなく、縛っているのは自分の常識だけなんです。これはデジタルとの大きな違いですね。白紙には何でも書けるのに、「自分はどこへでも広がっていける」という気持ち良さを忘れている人が増えている気がします。
――手書きとデジタルの違いについて、最後にもう少しお考えを聞かせてください
デジタルは「目的」がはっきりしていますよね。私もパソコンやスマートフォンを使いますが、デジタルは「より使いやすく」や「効率良く仕上げる」「短時間で同じものを仕上げる」など目的が明確で、仕事の成果を出すという意味では効率的だと思います。ですが、より表現として深いものを生んでいくためには、無駄な時間や余白、遊びなど、一見、脈絡がないことの結び付きが大事になると考えています。鉛筆やペンで白紙に書くのは、デジタルと違って方向付けられていません。そこには余白や遊びがあり、それが創造につながると思うんです。
池坊専宗
華道家元池坊 次期家元池坊専好の長男として京都に生まれる。慶應大学理工学部入学後、東京大学法学部入学。東京大学卒業時に成績優秀として「卓越」受賞。名もなき花を生け、日常の一瞬間を写真として描く。JR京都伊勢丹にて祈りの展示「MOVING」、日本橋三越本店にて写真展「一粒の砂 記憶 ひかり」を行う。池坊青年部代表、京都市未来共創チームメンバー、東京国立博物館アンバサダー、花の甲子園審査員、2024年度 KYOTO CRAFTS and DESIGN COMPETITION審査員。講座「いけばなの補助線」や文筆、インスタレーションなど様々なかたちで日常の美しさと交わることを伝え続けている。
Direction:CREEK & RIVER
Writer & Photo:島尻明典